テロ!テロについて・・

「I先生、私は「アラブ語辞典」を作りたいんです。日本にはまだ一冊も無いんですよ!

これではアラビア文化の事が分かる訳が有りません。 英語やドイツ語、フランス語の辞典は幾らでもあるのに、

余りにも偏り過ぎています。アラブ世界は地球の巨大な部分を占めているんです。何億人もいます。

その人達がどんな考えを持っていて、どんな気持ちで暮らしているのか。

それが全然分からないと言うのでは日本人の「世界地図」はひどくゆがんでいると思うんです。」

とはアラビア研究の先覚者、故 川崎寅雄先生の言葉である。

学生にもよくこう語られた。 「日本ではアラブと言うと「恐い」イメージが有るがとんでもない。

あんな人なつっこい人たちもいないよ。真面目だし勤勉でもある。

東洋や西洋とは文化が違うから初めはとまどう人もいるかも知らんが

習慣の違いなんかちっぽけなことです。みんな同じ人間、泣いたり笑ったりして

暮らしている。みんな平和を願っているし、楽しい暮らしを願っている。

そもそも「イスラム」とは「平和」という意味なんですよ・・・・・・・」

“知らない”と言う事は恐ろしい。実体を知らないと単純化されたイメージが

一人歩きしてしまう。

情報の多くが「欧米のメガネを通して見たアラブ」でしかない。

だから極悪テロリストがアラブ人らしいと言うだけで「アラブは危険だ。イスラム教は暴力的な宗教では無いか」などと短絡しがちである。

だが12億人ものイスラム教徒がみな暴力的な訳が無いしイスラム原理主義の名で呼ばれるイスラム回帰の運動も一枚岩では無い。過激派は一部であり大半は穏健派である。

もちろん全てのテロは「絶対悪」である。 断じて許せない。

しかしイスラムの教えから直接テロが出て来る訳では無い。

「イスラム教では「ジハード」という言葉が時に「聖戦」と解釈されて来ましたが、厳密に言えば武力に訴えるのは「外的な小ジハード」であり「大ジハード」イコール「内的なジハード」は自分の貪欲、憎しみ等の悪い心を克服し精神を浄化する事を意味するのです。」とイラン出身のテヘラニアン所長は言われていました。

聖戦と言えば日本も先の大戦を「聖戦」と呼んでアメリカやアジアに対して暴力行為を繰り返した。その戦闘を正当化し鼓舞するために国家神道が利用された。

しかし、だからと言って「日本人も日本文化も本来暴力的である」と言われたら

納得出来ないのでは無いだろうか?

ともあれパレスチナ問題や湾岸戦争、石油産業の利権や軍需産業の意向など複雑に絡み合った中東問題を「善玉」と「悪玉」の戦いの様に単純化する事は危険である。

その不毛さは、かつての反ソ闘争やベトナム戦争の悲劇を思い起こせば明白であろう。 いわんや互いに相手を力で屈服させようとして「目には目を」「歯には歯を」「死には死を」と報復合戦を繰り返していくならば、永遠に平和の日は来ない。

川崎先生はよく日本人の無認識を嘆いておられた。

「アラビアにも冬があるし、雪だって降る」「砂漠と言っても砂と言うより土である」「コーヒーもシュガーもアルコールもアルカリもシロップもギターもソファも、元はみんなアラビア語なんです。日本語に思われている「ジュバン」や「ジョーロ」もポルトガル経由のアラビア語なんです、と。

今回アメリカに対してあまりにも残酷なテロが実行された。「こんな殺りくは2度と見たく無い!」誰もがそう思った。犠牲になった市民に何の罪が有ると言うのか!どんな理屈を付けようとも、こんなやり方に誰が共感しようか、納得しようか。 伝えられるように、もしも犯人が宗教を持っているとしても、こんな行為が「殉教」で有るはずが無い。殉教とは自分が死ぬ事だ。人を殺す事では無い。殉教とは人を救う事だ。人を殺すのは、ただの破壊者である。

今、全人類が「テロの根絶」へと結束すべき時が来た。問題はどうすればそれが出来るのかである。軍事的な「報復」によってそれが出来るだろうか?

今バグダッドは戦争と長い経済封鎖の為荒廃しきっている。

国連の食糧農業機関(FAO)の警告によると、もしもアフガニスタンに報復攻撃が加えられたら、さらに食糧不足が悪化し、「人口の四分の一に当たる六百万人が飢餓状態に直面する」と言う。 どんな理由が有るにせよ、兵士でも無い市民を殺りくするのが「正義」なのか?罪も無い赤ちゃんを殺す権利が誰に有るのか?

大人が始めた戦争で、なぜ子供達が殺されなければならないのか?病人から薬まで奪って苦しませ死なせて行くのが「正義」なのか! イラクに住んでいるのはフセイン大統領だけではないんだ!と。報復・報復・・・・・「原爆」も「真珠湾」の報復だったのであろうか?「真珠湾」は絶対に悪だが、では「悪を懲らしめた原爆」は正義だったのか? それが「正義の戦い」と言えるだろうか。

報復する事により間違い無くさらに憎しみをかき立てるだけではないだろうか。

テロの背景には、アラブ世界に広がっている。「強い反米感情」が有る事を考えれば、ガスが充満した部屋に火を投げ込む事になりかねないのである。

仮に当面の敵を制圧出来たとしても、それで本当に「平和」が来るであろうか?

積もり積もった「憎しみ」は、いよいよ深く地下にもぐり世界のどこから現れるか予想もつかなくなり、いよいよ不安な世界になるのでは無いだろうか。

“北風”が旅人のコートを脱がせようと吹き付ければ吹き付ける程、旅人は

固くコートを放さなかった・・・・・・“北風と太陽”の寓話を今、思い出すべきではないだろうか。

今、実は、世界は、素晴らしいチャンスを手にしているのである。まったく新しい歴史を開くチャンスである。こう宣言できる好機なのだ。

「われわれは、今回のテロ事件を『人類の法』に対する挑戦と見なす。ゆえに同じ『ジャングルの掟(暴力)』に従うことを拒否する。われわれは、武力による解決ではなく、アラブ世界との大いなる対話を開始することを宣言する。『憎悪の大火』に油を注ぐのではなく、かつてなかったほどの『対話の洪水』で、火を鎮め、世界を潤す道を選ぶ。この惨劇は、二十一世紀の最初の年に起こった。この2001年を、われわれは『アラブ世界との対話』元年としたい。それが、このような悲劇を根絶する最良にして唯一の選択であり、犠牲者を慰霊する正道であると信ずる」と。もしも、こう宣言し、実行したならば、後世の歴史家は絶賛するに違いない。

大悪おこれば、大善きたる。しかし、大善は、ひとりでに来るわけではない。大善をもたらすのは、常に勇気である。今、「非暴力の勇気」「対話する勇気」「聞きたくないことを聞く勇気」「復讐心を抑えて、理性に従う勇気」を発揮すべき時だ。そして、犯行者に対しては、国連が中心になって、「テロリストを、国際的な司法の場で裁くシステム」を作るべきであろう。国内で「殺人事件」が起こったら、犯人を逮捕して、きちんと裁判の手続きをし、判決、刑の執行ということになる。

被害者が直接に、犯人に復讐をすることは禁じられている。報復で殺した者も、「殺人罪」になる。それが、長い時間をかけて、人類が整えてきた「法による支配」である。それでこそ「法治国家」のはずだ。にもかかわらず、国際社会だけが、今なお、そういう手続きもなく、いきなり「死には死を」という復讐を認めるのはおかしい。

かねてから構想されてきた「国際刑事裁判所」(ICC)というアイデアがある。これは、国際社会に深刻な被害をもたらす「ジェノサイド(集団殺害)」「人道に対する罪」「内戦も含む戦争犯罪」「侵略の罪」などを裁くための常設の法廷である。すでにある「国際司法裁判所」が、国家間の紛争を扱うのに対して、「国際刑事裁判所」は、個人の掲示責任を追求する。私は、これまでも「SGIの日記念提言」などで、この構想に支持を表明してきたが、今また、「早急に設立を」と訴えたい。98年に、設立のための規約は採択されたが、条約の発効には「60ヵ国」の批准が必要であり、まだ達していない。今年の7月、オランダが批准したのが37ヵ国目である。ちなみに、日本も、アメリカも批准していない・・・・・

D・I

 

「人間を獣と区別するのは、道徳的高さにおいて

獣に優ろうとする絶え間ない努力です。今や

人類は「分かれ道」に立っています。暴力と

言う「ジャングルの掟」か、それとも非暴力

と言う「人類の法」か、どちらかを選ばなけ

ればなりません。」        ガンジー