Q: 「今まで、何となく、『いじめられるほうにも悪いところがある』と思ってきましたが、『いじめた側が百パーセント悪い』とDI先生に言ってもらって、ヤキモキしていた気持ちが、すっきりしました」という声がとても多いです。
A: それは、よかった!何度も言うけれども、その一点が「いじめをなくす」ための急所です。
どんな理由があっても、人を苦しめる「いじめ」をしてはならない。させてもならない。そういう子がいたら、周りが、ただちに「絶対にいけないことだ」と教えなければならない。親も、クラスメートも、周囲の大人も、いじめっ子に「教えて」あげてもらいたい。その子は、「自分が何をしているか、わかっていない」のだから。
Q: 言っても、わからない場合は……。
A: 「わかるまで」教えなければならない。おざなりの注意では、いじめが陰湿化するだけの可能性がある。本人が心から「悪かった」と思わなければ。そのために、どんな努力をしようとも、その子に親がつきっきりになってでも、教えなければならないと思う。労を惜しまずに。言葉を惜しまずに。時間を惜しまずに。今、日本では、この基本的なことができていないのではないだろうか。
Q: そう思います。こんな話があります。体に軽い障害のある子が、いじめられていた。しかし、先生は真剣には注意しない。その理由を聞いたら「あの子は社会に出てからも、いじめられる。だから、今から、強くなっておかなければならない」と言っていたというのです。ひどい!極端な例かもしれません。しかし、程度の差こそあれ、こんなバカげた、さかさまの考え方が決して珍しくないのです。「気が弱いから、いじめられるんだ」とか。まるで気が優しいことが悪いことみたいに─。いじめられている子に「強くなれ」と言うだけで、いじめている側に対して「いじめは、絶対に許さない。体を張ってでも、やめさせる」と向かっていく気迫が、大人にない場合が多いんです。
A: 学校とは「教育の場」です。「いじめは絶対にいけない」と徹底的に教えこんでいくのでなかったら、どこに「教育」があるのか。何のための「教育」なのか。そう言われてもしかたがない。
もちろん、口で言うほど簡単なことはないでしょう。また、真剣勝負で取り組んでいる先生も多いと思います。そして、根本は「いじめっ子の親」が本気にならなければいけないと、私は思います。人を平気でいじめるような子が、将来、幸福になるわけがない。心が、花の咲かない「砂漠」になってしまっている。必ず後悔する。
Q: 本当にそう思います。「おもしろ半分で友だちをいじめたことを、ずっと後悔している。苦しくてたまらない」という人も、私は知っています。
A: 子どもの幸福を願うのならば、一切をなげうってでも、正しい道に引き戻さなければならない。
子どもを愛し通すことも、「戦い」なんです。また周囲も、そういう親の努力を、温かく応援してあげてほしい。突きはなさないで。
Q: そこで、きょうは、「いじめる側」になってしまった人から質問が寄せられています。中学三年
生の男子なんですが……。「自分では、その場を盛り上げるために、ある友だちを、ちょっと
『からかった』だけのつもりだったのですが、あとで、担任の先生から呼ばれて、『いじめ』だと言われました。話を盛り上げるためには、ちょっとした『ふざけ』や『からかい』も必要だと思います。そういうことまで含めて、『いじめ』だと言われるのは、おかしいんじゃないでしょうか」ということなんですが。たしかに、「ふざけ」と「いじめ」は、どこが違うのか。「線引き」は難しいですよね。人によっては、相手に「親しみ」をこめてやっている場合もあります。
それを頭から「いじめだ」と言われると、ショックなんです。ですから、ちょっとした「ふざけ」や「からかい」まで、いじめと言い始めたら、「じゃあ一体、どうしろと言うんだ!」
「友だちづき合いもできないよ!」という彼らの叫びも、よくわかるんです。
A: なるほど。自分では「友情表現」のつもりなのに、先生から「お前、いじめただろ!」なんて言われたら、腹が立つ─そういうことだね。
Q: 「あの野郎!先生に言いつけやがって!」という気持ちもあるでしょう。「そんなにいやだったのなら、ひとこと、直接、言ってくれればいいのに」と思うかもしれません。たしかに、それも
一理あります。「告発合戦」みたいになっては、お互いに不幸ですから。
A: そうだね。ただ、「直接、言えなかった」相手の気持ちもわからなければいけない。つまり、それだけの信頼関係、人間関係がなかったからではないだろうか。同じ言葉でも、がっちりした信頼関係があれば、「親しみ」を表現する言葉にもなり、そうでなければ、相手を深く傷つける言葉になる。そういう場合がある。もちろん、どんな場合でも、絶対に言ってはいけない言葉があり、してはいけないことがあります。
Q: 複雑……ですね。
A: いや、基準は単純です。「相手がいやがることはしない」ということです。
Q: そうですね。それに尽きますね。
A: だから、問題は「相手がいやがっているのに、それがわからなかった」鈍感さにある。だから、質問のケースは、「今回、自分の鈍感さを教えてもらったんだ」「いい勉強になった」と思って率直にあやまったらどうだろう。もしも、こういうことがなかったら、「しらないうちに人を傷つけている」人間のまま、大人になってしまったかもしれない。
Q: その意味では、指摘してくれた相手に感謝すべきなんですね。
A: 私は、みんなに「かぎりなく温かい人」になってもらいたい。傷ついた人の心も、君に会うと、ほっとして、自然に微笑みがわく。そんな人になってもらいたい。凍りついた心さえ、君に会うと、安心して、ぐっと、ほぐれていく。そんな人になってもらいたい。どこまで大きいのかわからない、どこまで優しく、どこまで強いのか、わからないような、「かぎりなく心広き人」になってもらいたい。だけれども、今の日本の社会は、まったく反対の、ぎしぎすした、「人の不幸を喜ぶ」ような社会になってしまった。そのなかで生きている君たちは、かわいそうと言えば、本当にかわいそうだ。しかし、それでも、あえて私は言っておきたい。「どんなに大人がいいかげんでも、君たちだけは、そのまねをするな!汚い大人のまねをして、人をいじめたりするな!
どんなに大人社会が腐っていてみ、若き君たちだけは、その毒の染まるな!敢然と『ノー!』と言いたまえ!そして、君たち自身の力で、団結で、君たちの望む未来をつくりたまえ!」と。
Q: 本当に、今の日本に住んでいると、「いじめが悪いことなんだ」ということさえ、あいまいになってくると思います。今回の質問の場合も、背景は、テレビとかの影響が大きいのではないでしょうか。テレビでは、人をバカにしたり、欠点をあげつらって、それで笑いをとって─そういう人が人気者であったり、「かっこいい」と思われているところがあります。わざと人を苦しめて、その様子をまわりで笑ってみている。そんな番組もありますね。それこそ、「その場が盛り上がれば、何をしてもいい」というような……。
A: そういうものを小さいときから見ていれば、「それでいいんだ」と思ってしまうだろうね。
Q: 簡単に人を殺す番組や、マンガも多いです。
A: 昔、江戸川乱歩という推理小説家は、子ども向けの小説には、殺人事件は扱わなかったという。
そういう配慮は、社会からなくなってしまったね。
Q: 「売れればいいんだ」と開き直っている感じです。それと、ぜひとも私が言っておきたいのは、
低級週刊誌と、その広告です。毎週毎週、人の悪口とか、いいかげんなうわさ話とかを書き散らして、「ジャーナリズム」だなんて、とんでもない。単に「いじめる相手」を探しているだけです!本来、そんな卑怯な、くだらないものは、見向きもしなければいいわけです。どの国だって
その類のものはありますから。ところが、日本では、いやでも見ないわけにはいかなくなっているんです。広告です。例えば電車に乗るだけでも、いやでも、そういう毒々しいものが目に入ってくる。子どもたちも見ます。いわば、社会が、いじめを「公認」しているわけです。知り合いの北欧の人が「考えられない。クレージーだ」とびっくりしていました。「日本では、いじめを奨励しているのですか?」と。北欧は人権の先進国ですから。驚くでしょうね。つまり、「いじめられている側」は、さらしものになって、悪者みたいに言われ、「いじめている側」は堂々と認められている。白昼堂々と泥棒をしたら、だれでも犯罪だとわかります。しかし、「いじめ」という人権侵害の悪事が、まさに白昼堂々と行われているのが日本なんです。その「毒」が、みんなに広がって、ものすごい数の子どもたちを苦しめているんです。そういう現実を放置しながら、いくら口で「いじめを憂う」とか言っても、偽善ですね。そして、大人がいじめを容認している分だけ、「これくらいなら、叱られないだろう」「これくらいなら大丈夫だろう」と計算しながら、やっている面
があるんです。ともかく、日本の社会全体が「いじめる側に甘い」と思います。いえ、いじめられた私の実感から言うと、だれもかれもが「いじめる側の味方」だとしか思えませんでした。
A: 私はね、質問してくれた彼については、きっと「悪かった」と気がつけばやめると思う。そう信じたい。しかし、明らかに「いじめ」だとわかっていることを、やっている場合も多い。それは悪質です。それにしても、どうして、そんなに人をいじめてしまうのだろうか?
Q: なぜ、いじめが起きるのか。前に、中学生の代表に「アンケート」をとってみました。こんな意見が寄せられました。「毎日の生活が充実していないから」「いじめる側の人間が弱いから」「やきもち」「ストレス」「お互いのことを分かち合っていないから」「ひとりひとり意見が違うのに、みんな同じでないといけないという考えがあるから」「ひとりひとりの良いところをわかろうとしないから」「勉強できる人とできない人を先生が差別
するから」「いじめを止める人がいないから」などです。
A: みんな利口だね。よく見ているね!もちろん「心」の問題は、一人一人の身になってみないと、わからないわけだが。
Q: やはり、大きな背景として、ひとつの枠に入れられることへの反発があるのかもしれません。特に、「成績だけで人間を判断する」という狭い価値観が、影を落としていると思います。「勉強ができない」だけで、何か「ワンランク下の人間」みたいに見える。差別
された人にとって、差別は「全存在を否定される」ことです。そいうい狭い人間観が、成績が悪い子も、そして、いい子も、両方おかしくしているのではと思います。
A: たしかに、年中、「お前は、だめだ、だめだ」という目で見られ続けたら、だれだって生きるのがいやになるでしょう。反対に、「勉強さえしてくれれば、ほかのことは放任」でも、おかしくなります。そもそも、「何のために」学ぶのかわからないまま勉強しても、知識だけでは心は満たされない。「何のため」がはっきりしていれば、苦しいことでも人間は耐えられるし、学んだことが全部、心を育ててくれる。一番大事なことを教えないで、細かいことばかり、「あれはダメ」「これもダメ」と管理している。
Q: よく「自分の居場所がない」という表現をします。いろんな意味が含まれていると思いますが、自分の存在をありのまま、まるごと受け入れてくれる場所がないという「さびしさ」があるんだと思います。そこから、なにかにつけて「いらつき」「むかつく」不安定な状態になるんではないでしょうか。外見や成績だけで、人を「決めつけ」ないでほしい─そんな気持ちはわかります。自分という人間を、もっと認めてほしいとうい叫びかもしれません。
A: そうかもしれない。じゃあ、どうして、自分が認められなかったら、「むかつく」んだろうか?
それは、その人が「人間」だからです。
Q: 「人間」だから「むかつく」……?
A: 「人間」だからこそ、心が飢えるんです。おなかがいっぱいでも、それだけでは満足できないんです。「人間である証拠」なんです。さっき「何のため」という話をしたが、たとえば「将来、楽な暮らしをするために、今、頑張るんだ」と言われても、それだけでは、心が満たされないのが人間です。だから、むなしさを感じている君は、まさに「人間」なんです。
DI