癒しの画像|癒される言葉

Q:ある男の子が自分から私に声をかけて来てくれたんですが、 話を聞いて、びっくりしました。 明るくて、はきはきした子で、いじめに悩んでいるようにはとても見えなかったからです 。 彼自身は「ぼくは、堅くて、柔軟性がないから、また人の意見を聞けなかった面があるからいじめられるのかもしれません」 と言っていましたが………。
A: そうじゃないんだよ!  もし、かりに、そういう面が自分にあったとしても、どうしてそれが「いじめられてもしかたがない」 ことになりますか。だれだって、完全な人間なんかいない。欠点だらけです。 だからといって、その人を「いじめていい」ことになりますか。そんなことを言ったら、 「いじめている」側のほうが、よっぽど不完全で、卑怯ではないか。人間として最低でしょう。 「みんながやっているから」「だれかが言ったから」「いっしょに、いじめないと、今度は自分がやられるから」もしか、そんな理由で、簡単に人をいじめるのを「柔軟性」というのならば、そんな「柔軟性」なんか、ないほうがいい! そんなのは柔軟性ではなく「付和雷同」という。日本人の一番悪いところです。 だから、「いじめられている」人は、決して、自分を恥ずかしいと思ってはいけない。 「恥ずかしがらないといけない」のは、いじめている側です。そちらのほうが、本当は「みじめな人間」なんです。だから、胸を張りなさい。目を伏せてはいけない。そんな、くだらない人間の仕打ちに負けてはいけない。負けたら、自分が損だよ!
Q: 今、思ったんですが、たしかに「いじめ」について話していると、「いじめられる側にも問題がある」という考えの人が、けっこう多いんです。時には、学校の先生方にも、そういう考えの人がいるようで、びっくりしました。この考え方が“いじめが、なかなかなくならない”大きな原因ではないでしょうか?
A: 「いじめられる側の問題」というのは、たとえば?
Q: よく聞くのが、「暗いから」とか「わがままだから」とか「なまいきだから」とかです。 体つきのことや、「目つきが悪い」とか、「勉強ができる」というのも理由にあげられます。
A: しかし、反対に、勉強ができないことが、いじめの原因とされることもあるでしょう?
Q: そうなんです。
A: 勉強ができても、できなくても、いじめられる。太っていても、やせていても、いじめられる。「暗いから」といって、いじめられ、反対に「目立つから」といって、いじめられ、じゃあ、どうしたらいいのか。
Q: どうしようもありません。
A: だから、いじめられる側の責任じゃないいんです。百パーセント、いじめる人間が悪い。   第一、「暗い」とか何とか、どんな表情をしていようと、個人の自由じゃないですか!   何も、そんなこと、人からとやかく言われる義務はない。何も悪くない。
Q: その通りだと思います。 ただ、その子が「うそをついた」とか「約束を破った」とかが、いじめの原因になる場合もあるようなんですが………。
A: それが事実だとして、「だから、いじめていいんだ」ということになりますか?たとえ、相手が悪くても、いじめてはいけないんです。相手がうそをついたら、ナイフで傷つけてもいいのか。 そんなことはない。相手の性格が悪かったら、殴っていいのか。そんなことは、絶対にない。 それと同じです。「いじめ」は暴力です。どんな理由も、理由にならない。 「いじめられる側にも原因がある」というのは、いじめる人にとって、つごうがいいから、そう言うのです。また、いじめを、「見て見ぬ ふり」をしている人が、自分の勇気のなさをごまかす「いいわけ」です。私は、そう思う。
Q: 本当に、そうです。もしも、何かの理由があって「気にいらない」なら、それを友情をこめて伝えて、なおすように努力してもらえばいいんですから。だけど、そんなことはしないんです。 「いじめの材料」に使っているだけです。 父親に相談したら、「いじめられるなんて、お前に『いくじがない』からだ」とか言われて、いじめられている自分のほうが悪いように責められた人もいるようです。いじめられるのは「弱い」からだ、強くなればいいんだ、という声はよく聞きます。
A: それも、まちがいです。いじめを増やしている原因です。 それじゃあ、いじめている人間が「強い人間」なのか。そうじゃないでしょう。 人を苦しめる人間の、どこが強いんですか。人間として、一番弱い、一番醜い心ではないですか。 自分で自分の醜い心に負けている「弱い人間」ではないですか。 そういう暴力人間を「強い」ように勘違いしているところに、「いじめ」の根源がある。 日本社会の狂いがある。昔も日本は、お隣の韓半島(朝鮮半島)や中国を侵略しておいて、 「日本が強く、相手が弱い国だったからだ」と、まるで相手が悪いようなことを言っていた。

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